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非日常は何処にでもあるけど、興味の無い人間には見えない
- September 9, 2007 8:56 PM
- mumbling
PHIEを仕切り直して作り直すに当たって、画面のレイアウトをやり直してみたら案外汎用的な2カラムテンプレートが出来たとか何とか。
で休憩がてらフィード消化していて下記のような文章を文脈もなく読んでいて、 "追い詰められながら退屈していた" 10代終盤から20代の始まりの頃を「そういえば...」と想い出していた。
どう過ごすか、これからの10年。 - 非日常への憧れと、日常への倦怠を感じる人へ
日常と非日常というのは「よくあること」と「滅多にないこと」という分類である。両者ともに現実を類型化したものに過ぎない。したがって、両者は対立する概念ではない。
つまり、実際に起こった出来事を人間が解釈し「これは日常だ」「これは非日常だ」と言っているに過ぎないのである。
しかし僕は、日常も解釈次第では面白いですよ、などと言うつもりはない。
僕が言いたいのは、日常と非日常はともに現実なのであって、日常を見ていなければ、非日常を見ることもできない、ということだ。
浪人しながらフラフラと楽器を弾いたり絵を描いたり、自分の中にあった知識や考え方を捏ねくり回して日記のような本を作ったり(※コピー本)。
今思うと前に進む為に自分の意識化にあるものを再構築して、今後の立ち位置を確認したかったのだろう。
そのとき作った本の帯に書いたのが「逃げ途は逃避場所ではなく生き場でしかない」という言葉なんだけど、高校の時の先輩に「あぁ、そうやなぁ」と苦笑いされて苦笑いを返したのを憶えている。
日常と非日常の差は観測者の視点ひとつで変化してしまうことは、その時分から当然だと思うようになって、書いた時「世の中の人はきっと皆こんな簡単なことは識っていて、私はこんな歳になるまで理解できていなかったのだなぁ。アホで情けない。えへへ」とか思っていた。
話戻って最近改めて身の回りを眺めてみると、無条件に非日常を手に入れようとする人も結構居るように思う。
何にも興味が湧かないけど、楽しいことがしたい...そういう風に見えるんだけど、何なんだろうその立ち位置。
他人の脳の中にドーパミンが出まくっているように見えるとか、対価と言う言葉がこの世に存在する理由を考えたりしないとか(面倒なのかな?)、そんなようなことを想像してしまう。
週末にこんな事を考えているのもアホらしいのだけれど、冷たくあしらっているのも無粋なので、紹介できるコミュニティを持っておいたほうが良いのかなぁ、とか。
基本的に独り遊び好きなのが、上記のような人々と相性の悪い原因かも知れないな。
あぁ取り留めの無い話。
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