ものづくりの視点
- February 9, 2006 1:50 AM
- mumbling
本屋からの帰り途、運転中に考えが沸いて来たのをメモ。
国内で仕様の決定や検証作業を行い、国外で物を作る。
こういう仕事をしているとつくづく思うのが、メンタリティの違いである。
日本人は基本的に「より好いもの、より安全なもの、より高度なもの、より心地よいもの」を作りたがる。思考逡巡という時間をコストに置き換えたものを対価に、クオリティを上げるのだ。物質的なコストはそのままに。
一方、大陸のエンジニアたちは「もっと簡単に、もっと効率的に、もっと少ない手間で、もっと少ないマージンで(利益マージンは増やす方向ね)」と考えているように思える。
消費者にとってどちらが善いか、というのは一概に決めにくい。
コストと機能性は基本的には相反するもので、お互いに自分に近いほうの妥協点をいつもみんなが探り合っている。
働き始めて暫らく、どうしても納得がいかなかったのだが、最近これは国民性というかメンタリティというかそういうものとは違うと思うようになった。
生まれてからこのかた、ひもじいと思ったことはあっても飢えを感じたことがない私にとって、当たり前の品質というものは文字通り当たり前であって、実はそこに付加される価値が消費のトリガたりうるのだ。
そんな人間が妄信的に「より好いものを」と唱えても、物を作って売って次の物を作る側にとっては「お前アホか、そんなことを考えている暇があったら生産ラインを動かして物を売るよ」なのだろう。
これは至極正論だ。
ただ、彼らの一部には正直言って国際的に物を作る最低限の約束事を判っていない人も含まれている。
ISOを取得したから品質のよいものが作れる工場になった、PSEに合格した製品が作れたから今後の製品は同等のクオリティが達成できている筈、などなど。
これらの思い込みは恐ろしく根深くエデュケイトするのに手間取る。
規格や品質保証体系は守るべきルールを包含している。
取得してしまった限りは逃げ出すまで遵守しなくてはならなくなるのだ。
その恐ろしさ、言い換えれば面倒くささを理解していない人間は認証を受けても意味が無い。
最低限必要な検査を行っていないということがどれだけ恐ろしいことか。
彼らが世を徹してものを作っている間、私は仕事を終えて、情報を吸収する。
何の腹の足しにもならない情報、手法、技術を磨いている。
同じアジアに住んでいるが、物を作ることに対する情熱の温度差は大きい。
(要するに理不尽に高い品質に対して彼らの理解を得ようとするなら、尤もな理由をつけなければならない)
大局的に文化的な滑らかさが得られるようになるにはまだまだ時間が掛かるだろう。
しかし悲観はしない。少なくとも現地の同僚たちは日本人が何をしようとしているか、理解しており、その情熱がどこからやってくるかという根本は別にして、そこに価値があることを知っている。
一方では、国内の狭いコミュニティでさえ、価値観の断絶は容易に起こりうる。
こんな判りやすい差分の補完くらいならば、面倒でこそあれ難しくは無い。その筈だ。
だから私は今日も物を作る。
自分のやっていることはどう考えても虚業だが、いつの間にかものは出来ている。
彼らの頑張りのお陰だろう。
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